第十四段:和歌こそ、なほをかしきもの

原文

和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、いひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪の床」といへば、やさしくなりぬ。

この比の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、けしき覚ゆるはなし。貫之が「糸による物ならなくに」といへるは、古今集の歌屑とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、すがた・言葉、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかくいひたてられたるも知りがたし。源氏物語には「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞいふなるは、まことに、少しくだけたるすがたにもや見ゆらん。されどこの歌も、衆議判の時、よろしきよし沙汰ありて、後にも特更に感じ仰せ下されける由、家長が日記には書けり。

歌の道のみ、いにしへに変はらぬなどいふ事もあれど、いさや、今も詠みあへる同じ詩・歌枕も、昔の人の詠めるは、さらに同じものにあらず。やすくすなほにして、姿もさよげに、あはれも深くみゆ。

梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただいかに言ひすてたることぐさも、皆いみじく聞こゆるにや。

現代語訳(適当です)

和歌もやはり面白いものだ。身分の低い者や木こりのしたことでも、和歌にすれば趣があり、おそろしい猪も、「ふす猪の床」と表現すれば、上品になる。

最近の歌は、一部は良い表現だと思えるものはあるが、古い歌のように、なぜだか言外にしみじみとした様子までも感じるものはない。紀貫之が「糸による物ならなくに」と詠んでいるのは、古今集の駄作と言われてきたが、現代の歌人が詠むことができるものとは思えない。その頃の歌には、文体や表現など、この類のものばかりである。この歌に限って、このように批判されているのかもわからない。源氏物語には、「物とはなしに」と書いてある。新古今和歌集には、「残る松さえ、峰に寂しい」と詠んでいる歌もあるが、確かに少しくどい文体にも思える。だがこの歌も、衆議判の時には、良いと判断されて、後日にも特に褒められたということが、源家長の日記には書いてある。

和歌の道だけは昔と変わらない、ということもあるが、いやどうだろうか、今も詠まれている同じ言葉や歌枕でも、昔の人が詠んだものは、決して同じものではない。難しくなく素直な表現で、文体も良く、情緒も深く思える。

梁塵秘抄(平安時代の歌謡集)の言葉も、また情緒深いものが多いようだ。昔の人が簡単に言い捨てたような言葉であってもみな素敵に聞こえるのだろうか。

感想

私は和歌のことはよく分かりませんが、「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉もあるので、その時々の表現があって良いと思います。

なので、この段を一読したときの印象は、「兼好さんは、最近の流行りの言葉が分からなくなって、年を取ったんじゃないの」と、飲みの席だったらツッコミたくなる感じでした。

 

徒然草とはだいぶ離れますが、最近はサブスクでいろんな曲が聞けるので、80年代のアイドルの曲を懐かしく聞いています。

最近の曲はさっぱり分かりませんが、この頃の歌は良く分かります。80年代のアイドルの曲は、プロが作った曲を、大人になりかけの未完成の子が歌う、という絶妙なバランスの上に成り立っていて、今聞くととても面白いのです。

 

ジャニーズの体制が変わって忖度が無くなったんだろうな、と思いますが、最近、トシちゃん(田原俊彦さん)のメディア露出が増えてきています。トシちゃんも厳しい状況の中、芸能界で生き抜いてきた芯の強さが垣間見えて、とても素敵です。

本当、人に言えないような苦しみもあったと思いますが、60歳になっても軽快に?踊っている姿を見ると、生きるってこういうことだよね、と、しみじみしてしまいます。

対してマッチが今は苦しんでいるようで、人生とは本当、いろいろ分からないものです。

 

さておき、和歌は良く分からないとはいえ、「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」「金槐集」とかは、昔習った歴史の知識で思い出せますが、その次に短歌で記憶に出てくるのは、与謝野晶子や正岡子規、という感じで、鎌倉~江戸の間には、有名な歌人、歌集がなかったということなんでしょう。

 

「歌は世につれ、歌は世につれ」ということで、鎌倉から江戸までの武士の時代には、和歌が流行る世の中ではなかったということかもしれませんね。

そういう意味では、兼好さんの指摘もごもっともなことかもしれない、と考えなおして、先の兼好さんへの批判?は取り下げして、十四段の感想を終わります。